【写真】浄運寺本堂
浄運寺の前身
【写真】宝篋印塔
宝篋印塔(文中四年)と浄運寺
浄運寺の前身として、現在の浄運寺本堂が立つ場所に宗教的な施設・人々の集まりがあったことを物語っているのが、現在大分県の指定文化財にもなっている宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。縮高二〇〇センチメートル。文中四年(一三七五)の立塔。碑文中に 「別時衆」の文字があるこどから別時念仏講衆が立塔したこどがわかる。堵身に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の梵字が影刻されている。
浄運寺といえば桜とつつじ園で有名であるが、そのつつじ園の最上部に厳然と屹立しているのが、この宝篋印塔である。
基礎は高さ三八糎、幅五七糎で四面に格狭間が陰刻され、西面の格狭間の両側には次のような銘文が陰刻されている
塔身は高さ四八糎、巾四三糎で四面には全剛界の四仏の種子が薬研彫りされている。笠の高さは二四糎、巾六九糎で上部は三段になっている。相輪は高さ九〇糎でその露盤の四面には、れんじが刻まれている。請花の下部には連珠装飾などもみられるが、惜しいことに火焔部は欠損して宝珠のみとなっている。総高二○○糎、石材は凝灰岩てあるが、全体的にみると相輪のふくらみがやや大きく法泉庵の印塔にくらべると流麗さはみられないようである。また装飾等も少ないが簡素で数少ないこの種の石造では貴重な存在てある。製作年代は刻銘のように文中四年(天授元年にあたり西暦一三七五年)室町時代に現世の安穏と後生の善処のために建立されたものてある。
昭和51年3月、大分県指定文化財となる。(『三重町誌』より)
江戸時代以降
【写真】浄運寺本堂
慶長八(一六〇三)年以降
慶長八年(一六○三)、伊予国(現愛媛県)より畠城主、吉松左馬介の次男良意(法名光誉)が三重郷にいたり、岩崎に一寺を建立、巖嵜山浄運寺と称する。同年十月十五日のことである。同寺は浄土宗鎮西派知恩院に属した。寛永十六年(一六三九)二月十三日遷化。第八世承譽が享保十四年(一七二九)五月二日に遷化すると、第九世禮譽が住職に就任する。寛保元年(一七四一)ころの浄運寺の状況はつぎのようになっている。山号は巖嵜山、浄土宗鎮西派知恩院末寺であり現在と変わらない。本尊は阿弥陀木仏の座像で、長さは二尺八寸。左脇士は観世音菩薩、右脇士ば勢至菩薩である。
〜豊後・臼杵藩史料『寺社考』より〜
塔山円前の灯篭一対は宝暦二年(一七五二)十月、禮譽らが大願主となって献灯したものである。石工は和泉国(現大阪府)佐兵衛の作である。 このとき、すでに当寺は巖嵜山から西台山と改号している。
【写真】浄運寺庭園での野点
第二十三世の照譽の代、昭和五十三年(一九七八)の庫裏新築、昭和六十年(一九八五)、本堂大改修、境内整備によって寺域が面目一新した。
平成15年に現住職の光誉が大分市大字宮崎の地に浄運寺の布教所を開設して現在の浄運寺別院へと発展している。地方(三重町)の過疎化と県都・大分市への人口集中を見据えてのものであった。光誉は平成30年夏には納骨堂を併設した浄運寺別院を新築している。
浄運寺の民話
【写真】浄運寺庭園
ふるさと民話 『稲葉小僧』
つつじ園で有名な久知良の浄運寺に幕末のころ不思議な小僧がいました。子供のころから身軽で、高い所へとビラリと飛び上がり、また飛び降りる様子はまるで猿の様であったそうです。その上忍びの術も心得ていたらしく、ときどき姿を隠していることもあったといわれています。成人して江戸(今の東京)に出て義賊とな、稲葉小僧といわれるようになりました。
稲葉小僧は盗賊ですが、人を傷つけたり、殺したりすることはなく、大名屋敷や大金持ちの家に忍び込んで、盗んだお金は貧乏な人に分けてやっていた、ということです。奉行所もずいぶん追い回しましたが、とうとう捕まえることは出未ませんでした。しかし稲葉小僧に段々と奉行所の手が伸びてきます。その内江戸にいられなくなって、浄運寺に舞い戻ってきました。
ところがのここにもお尋ね者の人相書が回っているので、お寺の床下に穴を掘って、その中に隠れて生活をしていましたがご三年ほどたって死んでしまいました。
浄運寺の山門のそばに稲葉小僧の墓と言い伝えられている石塔があります・・・・下記参照。
浄運寺の文化財・その他
浄運寺一石五輪塔
総高七十センチメートル。年代不詳。形式からみて南北朝時代から室町時代初期のころの立塔と推定されている。江戸特代の怪盗稲葉小僧の墓に擬せられている。 昭和50年3月三重町有形文化財指定。
浄運寺つつじ庭園
山の傾斜を利用し、自然石を巧みに生かしながら、約二百本のつつじを植栽、下方には泉水を配した雄大な庭園である。つつじは大株のもので畳八枚敷ほどあり、樹齢二百年ほどの木もある。 昭和47年3月三重町名勝指定。
浄運寺涅槃図
第三重町最大の涅槃図。たて三百二十センチメートル、よこ二百二センチメートル。三重町公立幼稚園研修会(H5,6,28)における、郷土史家・芦刈政治先生の資料より。
【写真】後藤家(代屋)位牌
【写真】野上弥生子文学碑
浄運寺と野上弥生子
野上弥生子は、小説『迷路』などで有名は大分県臼杵市出身の女流作家です。 写真は、浄運寺に安置されている位牌と、浄運寺境内にある 野上弥生子文学碑です.
後藤家(代屋)位碑。
代屋は野上弥生子の母の実家である。代々、下市(現市場四区)で造り酒屋を営んでいた。浄運寺は代屋の菩提寺である。主な位碑は以下のとおり。
- 弥生子祖父母
「明治十七年 後藤百太郎実父 堅譽固願善性居士霊 旧十月六日 官平事 五十四才」
「明治四拾四年 後藤百太郎実母 徳譽妙蓮貞操大姉 弐月弐拾参日 後藤レツ事 七十三才」 - 弥生子曾祖父
「天保四己年 後藤弥五郎利孝 願譽唯然意説居士 正月八日 行年二十一才」 - 弥生子高曾祖父
「天保七申年 後藤喜十郎利氏 寿譽徳音浄生居士 三月廿二日 行年四十六才」
浄運寺の関連写真
写経
心静かに写経中です
仏教講座
毎月1回、檀信徒の希望者があつまり、勉強会をしています。講師は浄運寺の前住職がつとめています。
法要
浄運寺では毎年定例の5回の法要が執り行われています。
婦人部
お寺の婦人部のみなさんにはいつもお世話になっています。ありがとうございます。写真はお寺の庭園の草取り清掃奉仕後の記念写真です。
寺院葬
お寺での葬儀は「本格葬」と言われています。浄運寺では24時間体制で葬儀の対応が可能です。
音楽
現在の浄運寺の住職は、音楽が趣味です。写真は、浄運寺本院でのジャズコンサートの様子です。プロミュージシャンには関西から来てもらいました(東雲マリ&角田浩ピアノ3)。
大会①
毎年、秋に浄土宗大分教区の寺院の檀信徒が集まり研修会を実施しています。この写真は、研修会の冒頭の読経です。各寺院の住職さんが整然と並んで法要をとりおこないました。
大会②
浄土宗大分教区檀信徒のつどいでの詠唱奉納
大会③
つどいに参加した浄運寺のみなさん